大愚和尚の怒り、うつ、恋愛、お金、家族に生じる「苦しみを手放し方」は執着を捨てること!

今回は、大愚和尚の怒り、うつ、恋愛、お金、家族に生じる「苦しみの手放し方」は執着を捨てること!を私の解釈を踏まえてお伝えしていきたいと思います。

苦しみの手放し方

皆さんは大愚和尚をご存知でしょうか?YOUTUBEで、現在18万人の登録者を誇る、日本で一番大きな仏教を根本にした、相談にお答えする「一問一答」というチャンネルを主催されています。

そんな大愚和尚の新著「苦しみの手放し方」を読ませていただきました。とでも共感できる内容です。もともと大ファンなのですが、今まで聞かせていただいた内容のある意味、集大成であると感じました。

もともと大愚和尚は、32歳で起業されて、企業を大きくされて40歳のころお寺に戻る決意をされています。

まさに、俗世、娑婆での経験からお話されていますので、生き方はもちろんですが、仕事やお金、経営者向けにも悩みの相談を受けられています。もちろん恋愛や家族という人間関係から生じる苦しみもありますね。

この本を読ませていただき、苦しみの根本原因は執着にあると感じました。

その執着から自分自身を解放すること、それが、苦しみの手放し方であると考えます。そこで、私の知る執着という部分から話をしていきたいと思います。

まず執着とは?

「執着」とはとらわれることであり、こだわることです。

人間には、好きな人にや大切なものに執着する性質があります。例えば、元カレや元カノなどの恋人に執着して苦しみます。

執着に苦しめられ、不幸になっている人がたくさんありますが、執着とはそもそもどんなもので、どうすれば手放せるのでしょうか?

人間、何かにとらわれたり、こだわったりすると、やめることができなくなります。長く付き合っていた人に執着すると、別れられなくなります。

その結果、この人とは結婚しないほうがいいと思っても結婚してしまい、不幸な結婚生活を送る人もあります。

また、ふられた相手が忘れられず、何とか復縁できないものかと悩み続けたり、無駄な努力に苦しめられることもあります。

他にも、小さい頃の思い出の品に執着して捨てられず、本やぬいぐるみがどんどんたまって、場所がなくなっていくこともあります。

ストレスを感じると、食べ物に執着してどんなに食べてもやめられないという人もあります。

職場では、地位に執着したり、実績に執着したりします。そして、立場が下がったり、首なったりすると、苦しみます。また、執着している物を人に奪われないだろうかという不安が起きてきます。

ただ本当によくよく考えてみると、ひとつの真実が見えてきます。

私たちは、それらにどんなに執着しても、最後死んで行くときには、置いていかなければならないからです。

生きて行くことをバスに乗ることにたとえるとよくわかります。

私たちが生まれたときを、バスに乗った時だとすると、車内で座席が空くと、先を争うように座ります。

途中のバス停で、色々な人が乗ってきたり、降りていったりします。生まれて来る人もあれば、死んで行く人もあるということです。

私たちの人生でも、色々な出会いや別れがあり、数少ないポストや立場を奪いあって苦しんでいます。

そして、「これは自分のとった椅子だ」と執着しています。

ところが、いつまでもバスに乗っているわけではありません。

終着駅というものがあります。

終着駅に着いたら、争って座った座席を自らはなれて、降りて行かなければなりません。人生から降りていくときには、あれだけ執着して手に入れたお金も財産も、地位も名誉も何一つ持って行けるものはないのです。

それにもかかわらず、私たちは、

「これは私のものだ」
「これは私の家だ」
「これは私の功績だ」
「これは私のやってきたことだ」
「あの人は私のものだ」
「あの子は私の子だ」

と、人それぞれ、色々な人や物事に執着して苦しんでいます。

それで、世間の人生論では、執着とは、人や物にとらわれることだとして、それが苦しみの原因だから、執着を捨てなさい、手放しなさい、と教えています。

「執着を手放す」ということは、表現はだんだん変わって行きますが、「知足(ちそく)」とか、「断捨離(だんしゃり)」、「ミニマリスト」など、形を変えてリバイバルしながら、人生論で繰り返しいわれることです。

確かに、ある特定の人や物に対してなら、執着している物を捨てたり、執着している人と別れたりすれば、その物や人への執着はなくなります。

しかし、新しい何かに執着するのが人間です。執着自体をなくすことはできません。

一体、どうすればいいのでしょうか?この執着について、仏教には詳しく教えられています。

仏教による執着とは?

仏教では、執着に2つあるそうです。

「我執」と「法執」の2つです。

「我執」は人は人でも自分にとらわれる心で、「法執」は物も入りますが、自分以外の存在にとらわれる心です。

1.我執とは

まず1つ目の「我執」とは何かというと、自分に実体があると思う心です。では、本当に自分に実体はあるのでしょうか?

肉体が私だとすれば、臓器移植をしたらどうなるのでしょうか。
肝臓が悪くなったら肝臓を交換します。
心臓が悪くなれば、心臓を交換します。

どこからどこまでが私でしょうか。
医学が進歩して、やがてどんな臓器も交換できるようになるかもしれません。

もし体全体を別の臓器に入れ替えてしまったら、私は一体どこにいるのでしょうか?
肉体は私ではないことがわかります。

では、脳が私でしょうか。
ところが脳が事故や色々な理由で一部損傷しても生きている人はあります。また老化で脳の考える働きが大分変わっても、記憶喪失で記憶が失われても、自分は続いています。
やはり私の脳であって、私ではありません。

こうして考えて行くと、これが私だというものはどこにもありません。

私というのは、色々な因縁がそろって今、一時的に現れている働きであって、実体はないのです。これを「無我」といいます。

変わらない私というものはない、ということです。

2.法執とは

次に「法執」の「法」とは、色々な存在要素です。この世のすべては、因縁がそろって生じているのですが、因と縁が離れればなくなります。固定的な存在要素というものはありません。実体はないということです。

これをたとえで教えられているのが、

「引き寄せて 結べば柴の庵にて
とくればもとの野原なりけり」

という歌です。

「庵」というのは、質素な小屋のことです。草葺きで作ってあるいおりを草庵ともいいます。

草庵

草庵

野原で周りの草木を集めて上を結ぶと庵ができます。これが「柴の庵」です。

ところが、この柴の庵に実体はありません。結んでいたところをほどくと、柴の庵はなくなって、また元の野原になってしまいます。

このように、因縁がそろっている間は一時的に柴の庵ですが、因と縁が離れれば、それはなくなるのです。柴の庵には、実体がないのです。

自動車なら、私たちはそこに自動車があると思います。ところが、何万個もの部品が集まっているときは一時的に自動車ですが、部品をばらばらにすると、自動車はなくなってしまいます。

その部品一つ一つも、さらに分解していくと、なくなっていきます。
このようにどんどん小さく分解していくと、分子になり、原子になり、最後は素粒子に行き着きます。

現代物理学では、そのような物質を構成している素粒子に大きさはなく、ただ関係だけがあります。実体はありません。

こうして、それによって構成されているこの世のすべてには実体はないのです。ところが私たちは、色々な物が外界に実在すると思っています。これが法執です。法執も我執と同じく錯覚です。

このような「我執」と「法執」によって、欲望や怒りや愚痴の煩悩を生じ、本当の幸せになれず、永遠に苦しみ迷い続けなければならないのです。

たとえば、財布を落とすと、大騒ぎします。それは、財布を私のものと執着していたからです。もし執着していなければ、何とも思いません。

また、定年退職を迎えたとき、寂しく感じてしんみりするのは、地位に執着していたからです。

それまで子育てに一生懸命だったのに、やがて成長して巣立って行くと、心にぽっかり穴が空いたような気がするのは、子供に執着していたからです。

この世は諸行無常の世界ですから、一切は移り変わって行きます。

やがて執着していた物が失われるときがやってきます。
特に、無常の中でも最大のものは、自分が死ぬことです。
死ぬときには今まで執着していたものすべてを失います。

そのとき、執着が大きければ大きいほど、私たちは苦しむのです。

それでブッダは、私たちの苦しみの原因は煩悩であり、執着であると教えられているのです。

どうすれば執着を離れられるのか?

ブッダは、この執着を離れなさいということで、因果の道理を説かれ、一切は無我であり空であることを説かれています。

ブッダ

ブッダ

しかしこれには、罠があり、だいたいの場合、何事にもとらわれてはいけないということにとらわれている、という状態を招きます。この執着はいけないという執着も煩悩ですね。

ブッダの名言に以下のものがあります。

実にこの世においては、怨みに報いるに怨みをもってしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である

今回は最後に、怒りや恨みといった人間関係での執着を離れるための究極の方法をお伝えしましょう。

怒りや恨みの反対は、許しです。

原因をつくった相手は何事もなかったように暮らしている。受けた傷、苦しんだ時間。
自分だけがつらい思いをするなんて納得できない。

許して、なかったことになれば自分だけが損をする。そうやって心が、報復や復讐に囚われる。

そのせいでいつまでも苦しみを抱えたまま。自分が許せないと思うものに縛られ、常に影響を受け続けるのです。

許せば楽になります。

「許す」ことは手放すこと。「許し」は自分の心を自由にすることです。

変えられない過去ではなく、変えることのできる今に焦点を当ててみましょう。私たちが生きるのは「今ここ」にある現実です。過去に意味を与えられるのも、今を生きる自分自身なのです。

「許す」とは我慢をすることではありません。目をつぶり、自分をごまかすことではないのです。

相手の立場になって共感することも大事なこと。だけど無理に理解して納得しようとしなくてもいい。

相手を好きになる必要もありません。許したい、許せば楽になるのはわかっている。でも簡単には許せない。

「優しさが足りない」「心が狭い」そうやって、許せない自分を責めなくていい。

許せない自分をまず許してあげましょう。

執着を手放すこと。あなたを苦しめる余計なものは捨ててしまえばいい。

誰のためでもなく、自分自身のために許すのです。否定するのではなく受容する。過去のせいにするのでもなく、受け入れて前に進んでいくのです。

他にも大愚和尚が人生の悩み相談でお答えになってきた50の質問に対する回答がこの本に書いてあります。ぜひお読みください、自分の心の安定、幸福になることに役立つでしょう。

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